宮殿に住む者が、宮殿の中で見つからなくなった。
始皇帝は咸陽の内外に二百七十余りの宮殿を持ち、それらを複道と甬道で結ばせていた。どの夜をどの宮で過ごすか、近侍のほかは知らない。皇帝の居場所を人に漏らした者は、死罪とされた。
姿を隠せば、刺客は近づけない。
人の目から遠ざかれば、老いも近づけないように思えた。
皇帝は方士たちに、不死の薬を求めさせていた。海には徐巿を送り、山野には盧生や侯生を遣わした。珍しい石、奇妙な草、仙人の言葉を書いた古い書。方士たちは、戻るたびに何かを差し出した。
ただし、不死の薬だけは持ち帰らなかった。
盧生と侯生は、咸陽を去ることにした。
「陛下は、ひとりですべてを決める」
盧生は言った。
「天下のことを大臣に任せず、昼夜、書類を量って処理しておられる。権勢を得ることを楽しみ、人を信じぬ。われらが仙人を連れて戻らなければ、いずれ罪を受ける」
「逃げれば、なお罪となる」
「残れば、死ぬ」
「逃げても死ぬ」
「同じ死なら、遠くで死にたい」
二人は夜のうちに姿を消した。
翌朝、皇帝のもとへ報告が届いた。
始皇帝は激怒した。
「余は方士を厚く遇し、望むものを与えた。しかるに仙薬を得ぬばかりか、余を謗って逃げたという」
殿内の者は、誰も顔を上げなかった。
「咸陽の諸生を調べよ。互いに告発させ、妖言をなす者をことごとく明らかにせよ」
御史が動いた。
博士の住まいが改められ、門下の者が捕らえられた。誰が皇帝を批判したか。誰が焚書を嘆いたか。誰が古を称え、今を謗ったか。
ひとりの名を挙げれば、その者は訊問を免れた。
名を挙げられた者は、さらに別の名を挙げた。
人が人を指す指によって、咸陽に大きな網が編まれていった。
そのころ季圃は、阿房宮から咸陽へ戻っていた。
工事の報告とともに、六国の厠を記した竹簡を農官の倉へ返すためである。箱は二人で持たねばならぬほど重かったが、季圃は他人に任せなかった。
焚書の火から救った箱である。
季圃が宮城の南門へ差しかかったとき、武装した役人が道を塞いだ。
「箱を置け」
「農官の倉へ運ぶものです」
「中を改める」
「すでに封があります」
「開けよ」
季圃は封を示した。
「丞相府と少府の印がございます」
「禁書を隠す者は、偽の印も作る」
「では、どうすれば本物とわかるのです」
「開ければわかる」
「開けた時点で、封を破った罪を臣が負います」
役人は少し考えた。
「箱ごと連れていけ」
「どこへ」
「獄へ」
季圃は箱とともに捕らえられた。
獄の前庭には、すでに多くの者が集められていた。白髪の博士、若い諸生、占いをする者、薬を売る者。官吏が竹簡を広げ、名と罪状を書き留めている。
季圃の番が来た。
「名は」
「季圃」
「何を学ぶ」
「文字を少々」
「師は」
「趙高殿」
書記の筆が止まった。
「中車府令の趙高か」
「はい」
「なぜ、その者に学んだ」
「宮中のすべての門を厠にしたためです」
書記は季圃を見た。
「何を申している」
「長い話になります」
「短く申せ」
「字を間違えました」
「箱の中は何だ」
「厠です」
「箱の中にか」
「厠の記録です」
「禁書ではないか」
「種樹の書です」
書記は筆を置いた。
「厠か、種樹か、どちらだ」
「厠を種樹へ用いる書です」
「厠に樹を植えるのか」
「植えません」
「では、何をする」
「厠から出たものを樹へ与えます」
前に並んでいた若い諸生が、思わず振り返った。
笑ったのではない。
世の中には、自分の命が決まろうとしているときでも、確かめずにはいられない話がある。
書記は箱を開けさせた。
韓、趙、魏、楚、燕、斉。それぞれの厠の構造と、糞尿を肥やしとして用いる方法が記されている。書記は数枚を読み、顔をしかめた。
「なぜ、このような書が焚かれずに残っている」
「医薬、卜筮、種樹の書は除く、と詔にございます」
「これは種樹か」
「丞相が、そうお決めになりました」
「李斯丞相が」
「はい」
書記は季圃の名の横へ、大きく「厠」と記した。
「証が得られるまで待て」
「どこで」
「中へ入れ」
季圃は獄へ入れられた。
箱も一緒であった。
同じ房に、十人ほどの諸生がいた。皆、壁際に座り、声を潜めていた。季圃が箱を抱えて入ると、ひとりが場所を空けた。
先ほど振り返った若者である。
「ほんとうに厠の書なのですか」
「ほんとうだ」
「それで助かると」
「まだ獄の中にいる」
「種樹の書なら、焼かれぬのでしょう」
「そのはずだ」
若者は少し考えた。
「ならば、孔子の言葉も種樹の書ではありませんか」
「なぜだ」
「人を育てます」
季圃は若者を見た。
「それを役人の前で言ったのか」
「言いました」
「どうなった」
「ここへ入りました」
季圃は、なるほどと思った。
房の隅には、小さな壺が一つ置かれていた。
十人が用いるには小さい。しかも蓋がない。
季圃は箱の中から、楚の厠について記した竹簡を取り出した。壺の置き場所を変え、灰を求め、板切れで簡単な囲いを作った。
「何をしているのです」
若者が訊いた。
「ここへ来ると、いつもこれをさせられる」
日が傾くころ、房内の臭いはいくらか軽くなった。
季圃は若者の隣へ座った。
「名は」
「韓旦と申します」
「韓の者か」
「父が韓の出です。わたしは咸陽で生まれました」
「何を言って捕らえられた」
「陛下は、人の諫めをお聞きになるべきだと」
「誰に言った」
「友に」
「その友が、おまえの名を挙げたのか」
「はい」
「恨むか」
韓旦は首を振った。
「彼も誰かに名を挙げられたのでしょう。自分が助かるためです」
房の中では、ほかの者たちが聞こえぬふりをしていた。
誰もが誰かの名を挙げ、誰かに名を挙げられている。
秦は文字を一つにしたが、恐怖の中で人が口にする名前までは一つにできなかった。
夜半、季圃は目を覚ました。
腹が張っていた。
夕刻に出された水を、飲みすぎたのである。
壺は囲いの向こうにある。
季圃が立つと、韓旦も目を開けた。
「どちらへ」
「遠くへは行けぬ」
季圃は囲いの中へ入った。
自分で直した厠ほど、ありがたいものはない。
用を足して戻ると、韓旦がまだ起きていた。
「季圃殿」
「何だ」
「もし、あなたが先に出られたら、わたしの名を覚えていてください」
「なぜだ」
「名がなくなるのは、死ぬことより恐ろしい」
「おまえの名は、役所の帳にある」
「罪人の名としてです」
季圃は答えなかった。
韓旦という二文字を、胸の中で繰り返した。
翌朝、趙高が獄へ来た。
季圃はひとり、房から出された。
「何をしている」
趙高が訊いた。
「捕らえられております」
「見ればわかる」
「臣も、なぜ捕らえられたのかわかりません」
「禁書を運んでいたと聞いた」
「あなたが臣に学ばせた厠の文字です」
趙高は箱を改め、御史の役人を叱った。
「これは農官の書である。季圃は諸生ではない」
「文字を学んでおります」
「官吏が文字を知らずにどうする」
「陛下を謗った疑いが」
「この男が謗るのは、厠が遠いときだけだ」
季圃は釈放された。
獄門を出たところで、皇帝の車と行き合った。
始皇帝は訊問の結果を、自ら確かめに来たのである。季圃が箱を抱えているのを見ると、車を止めた。
「また、その箱か」
「六国の厠にございます」
「なぜ獄から出てくる」
「諸生と間違えられました」
「何を学んだ」
「十人で一つの壺は少ないということを」
皇帝は季圃を見た。
「盧生と侯生は、なぜ余から逃げたと思う」
季圃は箱を抱え直した。
正しい答えは、方士が不忠だからである。
皇帝が望む答えも、それであった。
「陛下が、不死をお求めになったからではないでしょうか」
周囲の空気が固まった。
「余が悪いと申すか」
「できぬことを命じられた者は、できなかったと申し上げるか、できるふりをするか、逃げるしかございません」
「不死は、できぬことか」
「臣は、死んだことがございませんので、わかりませぬ」
皇帝はしばらく黙った。
「では、黙っておれ」
「はい」
季圃は伏した。
その日、御史は諸生たちの罪を定めた。
四百六十余人。
皇帝は、咸陽でこれを坑するよう命じた。
扶蘇は諫めた。天下が定まったばかりで、遠方の民はまだ秦に服していない。諸生は皆、孔子を学ぶ者である。重く罰すれば、人心が不安になる、と。
皇帝は怒り、扶蘇を北方の上郡へ送った。蒙恬の軍を監督させるという名目であった。
胡亥は、父のそばに残った。
諸生たちは城外へ連れ出された。
季圃は農官の倉へ向かう途中、その列を見た。手を縛られ、兵に囲まれている。
韓旦もいた。
季圃に気づいたが、声を上げなかった。
ただ、唇が動いた。
名を。
そう言ったように見えた。
夕刻、城外から兵が戻った。
諸生たちは戻らなかった。
季圃は御史府へ行き、処断された者の名簿を見せるよう求めた。役人は拒んだ。
「厠の管理に、なぜ名簿が要る」
「獄の壺が一つしかありませんでした。人数を確かめたいのです」
「すでに誰もおらぬ」
「次に入る者がおります」
役人は面倒になり、名簿を渡した。
季圃は四百六十余人の名を写した。
夜、農官の倉で六国の厠の箱を開けた。楚の農村で糞尿を肥やしにする方法を記した竹簡を取り出し、その裏へ小さな字で名前を書いていった。
韓旦。
その名から始めた。
夜が明けるころ、すべてを書き終えた。
季圃は竹簡を箱へ戻し、蓋を閉じた。外には「六国便溺之制」とある。これを開こうとする者は、ほとんどいない。
書は焼かれた。
人は埋められた。
だが彼らの名は、厠の記録に隠れて残った。
秦が価値なしとして見逃したものだけが、秦に消された者を守ったのである。
穴は、人を埋めることができる。
言葉を埋めるには、浅すぎた。
(つづく)



