第三回 厠の字 はこちら。
文字は、物に名を与える。
名を与えられた物は、それまでと同じ姿をしていても、同じ物ではなくなる。
季圃は、そのことを咸陽宮の廊下で知った。
扉という扉に、厠と書かれていた。
右を見ても厠。
左を見ても厠。
振り返っても厠。
天下は一つになった。
宮殿はすべて厠になった。
ことの起こりは、三日前である。
始皇帝は、文字の統一を急ぐよう李斯へ命じた。
李斯は秦で用いられてきた文字を整理し、国ごとに異なっていた字形を改めようとしていた。法令、戸籍、税の記録、軍の命令。文字が異なれば、同じ命も異なって伝わる。
命が異なって伝われば、人が死ぬ。
文字を一つにすることは、国を一つにすることに等しかった。
その大事業の一端を、季圃も担うことになった。
厠の字だけである。
「なぜ、私なのでございましょう」
季圃は李斯に訊いた。
「陛下の命だ」
「丞相から、陛下へお返しすることはできませぬか」
「恩寵を返す臣下を、余はまだ見たことがない」
「では、最初の者になります」
「最後の者にもなる」
季圃は引き受けた。
人が仕事を引き受ける理由は二つある。
一つは、褒美を得るため。
もう一つは、殺されないためである。
季圃の場合は、後者だった。
教える者は趙高であった。
趙高は六枚の木札を机へ並べた。韓、趙、魏、楚、燕、斉。それぞれの国で厠を示していた字が記されている。
鳥の足に似たものがあった。
虫を潰したようなものもあった。
どう見ても厠には見えないものもあった。
もっとも、厠に見える文字とは何かと問われれば、季圃にも答えられない。
「覚えよ」
趙高が言った。
「六つすべてを、でございますか」
「陛下は、まず厠の字から学べと命じられた」
「まず、ということは」
「終われば次がある」
季圃は木札を見た。
六国の文字は、六国の水より手ごわかった。
水は飲めば、いずれ出る。
文字は覚えなければ、いつまでも残る。
「これは韓だ」
趙高が一枚を示した。
「韓」
「これは趙」
「趙」
「これは魏」
「魏」
季圃は繰り返した。
楚まで進んだところで、韓を忘れた。
燕まで進むと、趙と魏が入れ替わった。
斉へ至ったときには、すべてが厠に見えた。
学ぶとは、知らぬものを減らすことだと季圃は思っていた。
実際には、知らぬものがどれほど多いかを知ることであった。
趙高は怒らなかった。
怒らず、何度でも同じ説明をした。
そのことが、季圃にはかえって恐ろしかった。
「趙高殿は、なぜ諸国の文字をご存じなのです」
「法を学んだからだ」
「法を学べば、文字も分かるのでございますか」
「法は文字でできている」
趙高は韓の木札を手に取った。
「人を生かすのも、殺すのも、最後には一字だ」
「剣ではなく」
「剣を振るう者へ命じるのは、文字だ」
趙高は木札を戻した。
その指は細く、長かった。
「季圃。命令の文に『捕らえよ』とあれば、人は捕らえられる。『斬れ』とあれば、斬られる。一本の線が欠け、別の字となれば、捕らえるべき者が死ぬこともある」
「恐ろしいものですな」
「だから、文字を知る者が上に立つ」
季圃は趙高を見た。
「文字を知る者が、正しいとは限りませぬ」
趙高は初めて笑った。
「おぬしは、ときどき余計なことを知っている」
褒められたのか、脅されたのか分からなかった。
季圃は学び続けた。
三日目、ようやく六つの字を見分けられるようになった。
趙高は木札の順を入れ替えた。
季圃はすべて言い当てた。
「韓、楚、斉、趙、燕、魏」
「よかろう」
季圃は胸を張った。
生涯でもっとも役に立たない勝利であった。
「では、秦の字を書け」
趙高が筆を差し出した。
季圃は顔を曇らせた。
読むことと書くことは異なる。魚を食う者が、魚を産めるとは限らない。
季圃は筆を取った。
慎重に書いた。
趙高が見た。
「これは何だ」
「厠でございます」
「余には、足を痛めた馬に見える」
「勢いを重んじました」
「字に勢いを持たせる前に、形を持たせよ」
趙高は季圃の竹片を裏返し、自ら筆を執った。
線は細く、整い、過不足がなかった。
同じ筆を使ったとは思えない。
季圃は趙高の字と自分の字を見比べた。
趙高の厠ならば、安心して用を足せる。
季圃の厠へ入れば、何か別のものを奪われそうだった。
「これを手本とせよ」
趙高は竹片を渡した。
季圃は宮中の工匠を集め、同じ字を木札へ写させた。
旧六国の宮殿には、それぞれ異なる文字で厠の場所が示されている。それを秦の字へ改めるのが、季圃の役目であった。
仕事は単純に思えた。
単純に思える仕事ほど、多くの人間を苦しめることがある。
季圃は書記へ命じた。
「六宮にある木札を、すべてこの字へ改めよ」
書記は竹簡へ記した。
「六宮にある木札を、すべて、でございますか」
「そうだ」
「一枚残らず」
「一枚残らずだ。古い字が残れば、人が迷う」
季圃は、厠の木札について話しているつもりだった。
書記は、宮中にあるすべての木札について命じられたと思った。
人は話の初めに聞いたことを、話の終わりまで覚えているとは限らない。
季圃は命令の竹簡へ印を押した。
印には責任がある。
押した者に、その自覚があるかどうかとは関係なく。
翌朝、季圃は騒ぎで目を覚ました。
咸陽宮の廊下を、官吏たちが走っていた。
「何事だ」
季圃は一人を呼び止めた。
「宮中が厠になりました」
「何を言っている」
「すべてです」
季圃は外へ出た。
最初の扉に、厠とあった。
隣の扉にも、厠とあった。
その隣にもあった。
倉も厠。
書庫も厠。
兵器庫も厠。
膳房も厠。
李斯の執務室まで厠であった。
丞相の部屋を厠と呼ぶことには、いくらか心を引かれるものがあった。
だが口に出してはならない。
廊下の向こうで、李斯が木札を見上げていた。
季圃は逃げようとした。
「季圃」
背中を向けたまま、李斯が呼んだ。
なぜ分かったのだろう。
罪を犯した者の背には、名が書かれるのかもしれない。
「はい」
季圃は戻った。
李斯は厠と書かれた自室を指した。
「これは何だ」
「丞相府でございます」
「札には何とある」
「厠と」
「余は、どこで政務を執っていたのだ」
「昨日までは、丞相府でございました」
「今日は」
季圃は木札を見た。
「厠にございます」
李斯は目を閉じた。
季圃も目を閉じた。
二人が目を閉じても、木札の字は消えなかった。
騒ぎは広がった。
兵は武器を取りに厠へ入り、食官は肉を取りに厠へ入り、書記は記録を求めて厠へ入った。
誰も間違ってはいなかった。
すべての扉が厠だった。
一人の官吏が、本物の厠を探して走ってきた。
「厠はどこだ」
「すべてだ」
季圃は答えた。
「本物の厠だ」
「それを探している」
自分がかつて味わった苦しみを、いま宮中のすべての者が味わっている。
人は己の苦しみを分かち合う者が増えると、わずかに慰められる。
季圃は、よくない喜びを感じた。
そのとき、廊下の奥から小さな一団が現れた。
中央に少年がいた。
年は十をいくつも越えてはいない。上等な衣をまとい、腰に玉を下げている。顔立ちは整っていたが、目には落ち着きがなかった。
少年は一つの扉を指した。
「ここが厠か」
従者が答えに窮した。
札には、そう書いてある。
だが扉の奥は宝物庫であった。
「開けよ」
少年が命じた。
従者が扉を開けた。
中には六国から集められた玉器や金銀が並んでいた。
少年は目を輝かせた。
「厠とは、よいところだな」
季圃は少年の将来が心配になった。
趙高が、その後ろに立っていた。
「公子胡亥であられる」
李斯が小声で言った。
始皇帝の末子である。
季圃は慌てて伏した。
胡亥は季圃を見た。
「おぬしが、すべてを厠にしたのか」
「望んでしたことではございません」
「なぜ、このようになった」
「命が正しく伝わらなかったのでございます」
胡亥は首を傾げた。
「命じた者が悪いのか。聞いた者が悪いのか」
季圃は答えられなかった。
命じ方が曖昧であった。
聞いた者は、書かれたとおりに動いた。
どちらにも過ちがある。
だが罰せられるときには、どちらか一人を選ばねばならない。
趙高が胡亥へ言った。
「命じた者が上にあり、聞いた者が下にあれば、下の者が悪うございます」
声は穏やかだった。
胡亥はうなずいた。
「分かりやすい」
季圃は顔を上げた。
分かりやすい。
たしかに分かりやすい。
しかし分かりやすいことと、正しいことは異なる。
趙高は季圃を見た。
その眸には、笑いがなかった。
宮中に鐘が鳴った。
始皇帝が、この騒ぎを知ったのである。
季圃は謁見の間へ呼ばれた。
皇帝の前には、厠と書かれた大きな木札が置かれていた。
玉座の間に掛けられていたものだった。
「季圃」
「はい」
「朕は、どこに座っている」
季圃は答えなかった。
玉座です、と答えるべきである。
だが木札に従えば、別の答えになる。
「申せ」
「陛下は」
季圃は覚悟を決めた。
「天下でもっとも大きな厠におられます」
李斯が顔を伏せた。
郭覧は天井を見た。
趙高は動かなかった。
始皇帝は木札を見た。
「朕の宮を、厠にしたか」
「私が命じたのは、厠の札を統一することでございました」
「命には、厠の札と書いたか」
「書いておりませぬ」
「では、おぬしの過ちだ」
「はい」
季圃は額を床につけた。
言い逃れることはできない。
印を押したのは自分である。
皇帝はしばらく黙っていた。
「文字を一つにすれば、誤りはなくなると申したな」
「文字が異なるために起きる誤りは、減ると存じます」
「では、これは何だ」
「文字が同じであるために起きた誤りでございます」
始皇帝の眉が動いた。
季圃は続けた。
「同じ字を読んでも、人が同じ意味を受け取るとは限りませぬ」
「ならば、どうする」
「命じる者が、分かるように命じるほかございません」
「受ける者に責はないか」
「分からぬとき、問う責がございます」
「問わなければ」
「ともに悪うございます」
広間が静かになった。
季圃は胡亥のほうを見なかった。
趙高のほうも見なかった。
始皇帝は、木札を手に取った。
「李斯」
「は」
「法令の文を改めよ。短いだけの命を良しとするな。誰が、何を、どこまで行うかを明らかにせよ」
「承知いたしました」
政策が生まれたわけではない。
法令の書き方は、すでに定められている。
ただ皇帝は、これまでより厳しく命の文を調べるようになった。
季圃が天下へ与えたものは、制度ではなかった。
役人たちの仕事である。
「季圃」
「はい」
「すべての札を元へ戻せ」
「一人で、でございますか」
「おぬしがすべてに印を押したのであろう」
「はい」
「ならば、すべて直せ」
季圃は伏した。
宮中には、数えきれぬほどの扉がある。
その一つ一つから厠の札を外し、元の部屋を確かめ、新しい字で書き直さねばならない。
「いつまでに終えればよろしいでしょう」
「日が暮れるまでだ」
季圃は顔を上げた。
太陽は、すでに中天にあった。
始皇帝は容赦がない。
太陽も待ってはくれない。
季圃は広間を退出した。
廊下には、厠がどこまでも続いていた。
その向こうで、本物の厠を探す官吏が走っている。
季圃は最初の木札へ手を掛けた。
外れなかった。
釘が深く打ち込まれていた。
仕事をした者は、たいそう丁寧であった。
丁寧な誤りほど、直すのに時間がかかる。
(つづく)
第五回 鹿はまだ鹿である はこちら



