鹿は鹿である。
馬は馬である。
その二つを見分けることは、幼い子にもできる。
だが、幼い子にもできることが、大人にはできなくなる場合がある。
季圃は、朝から木札を外していた。
咸陽宮のすべての扉に掛けられた、厠の札である。
昨日、季圃の曖昧な命令によって、宮中はすべて厠になった。
倉も厠。
書庫も厠。
兵器庫も厠。
始皇帝の玉座まで厠となった。
皇帝は命じた。
「日が暮れるまでに、すべて元へ戻せ」
日は暮れた。
ほとんど戻らなかった。
宮殿は広く、扉は多く、木札は丁寧に打ちつけられていた。
過ちを犯した者は季圃である。
だが、過ちをたいそう丈夫に仕上げたのは工匠たちだった。
季圃は夜も働いた。
月が中天へ昇ったころ、右手の皮が剝けた。
月が西へ傾いたころ、左手の爪が割れた。
東の空が白み始めたころ、季圃は自分がまだ最初の中庭にいることを知った。
咸陽宮には、中庭がいくつあるのか。
数えようとした。
絶望するために数を使ってはならないと思い、やめた。
「季圃」
背後から郭覧の声がした。
季圃は振り返らなかった。
「いま忙しい」
「陛下がお呼びだ」
「私は、いない」
「見えておる」
「これは私ではない」
季圃は木札を引いた。
「厠の札を外すためだけに生まれた、別の何かだ」
郭覧は季圃の隣へ立った。
「陛下の馬が消えた」
季圃は手を止めた。
「馬は消えませぬ」
「いなくなった」
「歩いていったのでしょう」
「それを消えたという」
始皇帝は、その日の朝、渭水の南へ出る予定であった。
皇帝の車は六頭の馬に引かれる。六国を平らげた天子にふさわしく、毛色と背丈を揃えた黒馬が選ばれている。
そのうち一頭がいなくなった。
名を騰影という。
影が飛ぶほど速い、という意味である。
よい名であった。
いまは影だけでなく、馬まで見えない。
「なぜ私を呼ぶ」
季圃は訊いた。
「馬を管理する役ではない」
「馬房に厠の札を掛けたのは、おぬしだ」
「掛けたのは工匠だ」
「命じたのはおぬしだ」
印には責任がある。
押した者が忘れても、周囲の者はよく覚えている。
季圃は皇帝の車が置かれた広場へ向かった。
五頭の黒馬が並んでいた。
六頭で引く車へ五頭を繋げば、片側が足りない。左右を揃えるため四頭にすれば、今度は天子の威儀に欠ける。
六国を滅ぼした皇帝が、馬一頭を失ったために出発できない。
天下は、大きな理由だけで止まるのではない。
始皇帝は車の前に立っていた。
李斯、趙高、少府の官、馬を扱う圉人たちが伏している。
季圃も伏した。
「騰影を探せ」
皇帝が言った。
「どちらへ行ったのでございましょう」
「それを探すのだ」
「馬へ訊くことができれば早いのですが」
「できぬから、おぬしへ訊いている」
始皇帝は、できぬことをできぬまま許しておく人ではなかった。
季圃は圉人へ事情を訊いた。
昨夜、馬房の札が厠へ掛け替えられた。驚いた圉人は、馬房を元へ戻すよう工匠に求めた。
だが工匠は、皇帝の印がある命令だと言って聞かなかった。
「それで、馬を移しました」
圉人は言った。
「どこへ」
「馬房と書かれた建物へ」
「馬房の札は残っていたのか」
「外されて、地に積まれておりました」
「その札を、別の扉へ掛けたのだな」
「はい」
「その扉の中は何だった」
「札には馬房と」
「中を見なかったのか」
圉人は黙った。
人は文字を信じる。
信じるために、文字はある。
だが文字を信じすぎる者は、扉を開けて中を見ることを忘れる。
「騰影を入れ、戸を閉めました」
「今朝、その戸を開けたら」
「馬房ではございませんでした」
「何だった」
「園囿へ通じる門でした」
その先には、皇帝が諸国から集めた獣を飼う広い苑がある。
騰影は夜のうちに苑へ出た。
闇のなかで、鹿や兎や鳥のあいだを歩き、どこかへ消えたのである。
季圃は苑へ向かった。
多くの兵と圉人がすでに馬を探していた。
苑には森があり、池があり、小さな丘があった。天下から集められた獣がいる。
人のためにつくられた宮殿より、獣のためにつくられた苑のほうが広く見えた。
趙高も同行した。
皇帝の車馬に関わる者として、馬が見つからなければ責を問われる。
だが趙高の顔に焦りはなかった。
「騰影は、どのような馬だ」
季圃が訊いた。
「黒い」
「ほかには」
「速い」
「いま走っていなければ、分かりませぬ」
「左の後脚に白い毛がある」
「それを先に申してください」
人が大切な特徴を最後に言うのはなぜだろう。
大切だから、誰もが知っていると思うのである。
季圃は地面を見た。
馬の蹄の跡がある。
だが苑には、ほかにも馬がいる。牛も鹿もいる。踏まれた地には無数の跡が重なり、どれが騰影のものか分からなかった。
季圃はしゃがんだ。
地面に黒いものが落ちている。
馬の糞だった。
趙高も見た。
「追えるか」
「文字よりは、信じられます」
「糞がか」
「糞は、自分を馬房とは申しませぬ」
季圃は糞を追った。
一つ。
二つ。
三つ。
間隔を置いて、森へ続いている。
天下の官吏が法令を読み、軍が旗を見て動くとき、季圃は糞に導かれて歩いていた。
それでも進むべき道が分かるだけ、官吏より幸せかもしれなかった。
森の奥から声が聞こえた。
「もっと速く走れ」
子どもの声だった。
木々のあいだから、公子胡亥が現れた。
一頭の鹿にまたがっていた。
鹿は困っていた。
人を背に乗せるために生まれた獣ではない。胡亥を落とさぬよう足を踏ん張りながら、前へ進むことも逃げることもできずにいる。
従者たちが鹿の周囲を走っていた。
「公子!」
趙高が呼んだ。
胡亥は鹿の上から二人を見た。
「馬を見つけたぞ」
季圃は鹿を見た。
どこから見ても鹿である。
「それは鹿でございます」
胡亥は不満そうに眉を寄せた。
「余が馬と言った」
「公子が馬と申されても、鹿でございます」
従者たちが息を呑んだ。
趙高は季圃を見た。
「季圃」
声は静かだった。
「公子が馬とお呼びだ」
「鹿でございます」
「公子の馬ではないと申すか」
「公子の鹿でございます」
胡亥は鹿の首を叩いた。
「この獣は余を乗せている。人を乗せるものは馬だ」
「牛も人を乗せます」
「ならば牛か」
「鹿でございます」
「頑なな男だな」
「鹿のほうが頑ななのでございます」
季圃は鹿の頭を指した。
枝分かれした角がある。
「角がございます」
「角のある馬だ」
「蹄が分かれております」
「蹄の分かれた馬だ」
「尾も短うございます」
「尾の短い馬だ」
胡亥は、言うたびに楽しそうになった。
季圃は、言うたびに疲れた。
権力を持つ者との問答は、相手が言葉を失わないため、終わらない。
趙高が胡亥へ歩み寄った。
「公子が馬とお呼びなら、馬でございましょう」
季圃は趙高を見た。
従者たちも、すぐに続いた。
「馬でございます」
「立派な馬にございます」
「角の美しい馬でございます」
鹿は耳を動かした。
自分が何と呼ばれているかには、関心がないようだった。
その姿を見て、季圃は思った。
鹿は、自分が鹿であることを証明する必要がない。
鹿であることに疑いを持つのは、人だけである。
胡亥は満足した。
「季圃。まだ鹿と申すか」
「申します」
「皆は馬と申しておる」
「皆が馬と申せば、角が消えますか」
胡亥は角を触った。
「消えぬ」
「蹄は一つになりますか」
「ならぬ」
「ならば、鹿でございます」
趙高が季圃へ近づいた。
「物の名は、人が決める」
「物の姿は、人には決められませぬ」
「姿が何であれ、皆が同じ名で呼べば、それが名となる」
「公子を陛下と呼べば、公子が陛下になりますか」
周囲の空気が凍った。
胡亥は笑うのをやめた。
従者たちは顔を伏せた。
季圃は自分の口を塞ぎたくなった。
人の一生は、言わなくてもよい一言によって縮む。
季圃は、その一生を何度も縮めている。
趙高は季圃を見つめた。
「今の言葉、陛下の前でも申せるか」
「陛下の前では、もっとよく考えます」
「余の前では考えなかったのか」
「鹿に気を取られました」
胡亥が笑った。
子どもの笑いであった。
「おぬしは面白い。殺すのは惜しい」
褒められたのか、命を預けられたのか分からなかった。
そのとき、森の奥で枝が折れた。
黒い馬が現れた。
左の後脚に、白い毛がある。
騰影だった。
馬は季圃たちを見た。
次に、胡亥を背へ乗せた鹿を見た。
しばらく動かなかった。
同じ獣として、思うところがあったのかもしれない。
季圃は静かに近づき、手綱を取った。
騰影は抵抗しなかった。
「見つけました」
季圃は言った。
「どちらが馬だ」
胡亥が訊いた。
季圃は黒馬を示した。
「こちらでございます」
「では、これは」
胡亥は鹿の首を抱いた。
季圃は答えた。
「公子がお乗りになっている鹿でございます」
「馬とは呼ばぬか」
「呼びませぬ」
「皆が馬と呼んでも」
「呼びませぬ」
胡亥は少し考えた。
「父上が馬と呼んだら」
季圃も考えた。
「心の中では鹿と呼びます」
「口では」
「馬と申し上げます」
胡亥は大声で笑った。
趙高は笑わなかった。
「それでよい」
趙高が言った。
季圃は、その言葉を聞いた。
なぜか、背に冷たいものが走った。
騰影を連れて広場へ戻ると、始皇帝は出発の支度を終えていた。
「どこにいた」
皇帝が訊いた。
「苑にございました」
「なぜ分かった」
「糞を追いました」
始皇帝は騰影を見た。
「天下の文字を一つにしても、最後に人を導くのは糞か」
「文字は、ときに嘘を申します」
季圃は言った。
「糞は、落ちた場所について嘘を申しませぬ」
李斯が顔を伏せた。
郭覧は遠くを見た。
皇帝は騰影の首を撫でた。
「出るぞ」
六頭の黒馬が車へ繋がれた。
騰影は、本来の位置へ戻った。
始皇帝の車が動き出す。
その後ろで、胡亥は鹿にまたがっていた。
従者たちは誰も、鹿とは呼ばなかった。
季圃だけが振り返った。
鹿は鹿の顔をしていた。
まだ。
(つづく)
第六回 松に爵あり はこちら



