会社に着いたのは、九時四十三分だった。
始業は九時。四十三分の遅刻である。もはや「ちょっと遅れました」ではない。ちょっとした旅行だ。
「おはようございます」
誰も返事をしない。
全員がパソコンを見ている。見ているが、見ていない。耳だけがこっちを向いている。
課長が言った。
「佐伯」
「はい」
「何時だと思ってる」
九時四十三分です、とは言えない。知ってるから聞いている。時刻当てクイズではない。
俺は鞄を置きながら考えた。
寝坊した。
普通に寝坊した。
アラームを止めて「あと五分」と思った。次に目を開けたら八時五十八分だった。五分が一時間二十三分になった。
しかし、それをそのまま言ったら怒られる。
そこで俺は、なぜか、本当になぜか、こう言った。
「電車が、象に踏まれまして」
静かになった。
もともと静かだったのに、さらに静かになった。
課長が俺を見る。
「何?」
「象です」
「何が」
「象が」
「どこに」
「線路に」
自分でも何を言っているのか分からない。
課長の眉間に深い谷ができた。
「佐伯」
「はい」
「寝坊なら寝坊って言え」
「いや、本当に象が」
その瞬間だった。
隣の席の田中が声を上げた。
「えっ」
全員が田中を見る。田中はスマホを見ていた。
「何これ」
「どうした」
「ニュース出てます」
嫌な予感がした。
田中が読み上げる。
「本日午前八時二十六分ごろ、練馬区内を走行していた貨物列車が、線路内に侵入したアジアゾウと接触し——」
「は?」
課長が言った。
俺も言った。
「は?」
象だった。
ニュース映像には、象がいた。
でかい。
ちゃんと象だった。
警察官に囲まれている。後ろで電車が止まっている。テロップには《通勤時間帯に混乱》と出ていた。
課長が俺を見る。
俺も課長を見る。
「……大変だったな」
「はい」
俺は座った。
何が起きたのか分からなかった。ただ、一つだけ分かった。
助かった。
人生、何があるか分からない。寝坊しても象に救われることがある。
そう思った。
その日は、それで終わるはずだった。
翌日。
俺はまた遅刻した。
九時十一分。
昨日よりだいぶいい。成長である。
課長は腕時計を見た。俺を見る。何も言わない。
だから余計に怖い。
「すみません」
「今日は?」
「え?」
「何に踏まれた」
嫌味である。
昨日の象をもう一度使うのは無理だ。象にも予定がある。
俺は適当に言った。
「家を出たら、道路がなくなってまして」
課長がゆっくり目を閉じた。
「佐伯」
「はい」
「昨日は本当に象がいた」
「はい」
「だから俺も反省した。世の中には想像できないことがあるんだな、と」
「はい」
「道路はなくならない」
「ですよね」
俺は席に向かった。
そのとき、田中が言った。
「えっ」
やめろ。
その「えっ」はやめろ。
田中はまたスマホを見ていた。
「杉並区で道路陥没だって」
俺は止まった。
テレビをつける。
道路がなかった。
かなりなかった。
ぽっかり消えていた。
課長が俺を見る。
「……大変だったな」
「はい」
全然大変じゃなかった。
そこ、通ってない。
今日は単純に歯磨きしながら動画を見ていたら十一分遅れた。
でも、どうやら俺の遅刻の言い訳は、本当になるらしい。
昼休み。
俺は田中と屋上にいた。
「試してみよう」
田中は楽しそうだった。
「嫌だよ」
「なんで」
「怖いだろ」
「便利じゃん」
「どこが」
「遅刻し放題」
世界を書き換えられるかもしれない能力を手に入れて、用途が遅刻の免罪だった。
「じゃあ明日、言ってみてよ」
「何を」
「総武線が全部プリンになった」
「交通網をデザートにするな」
「東京湾が味噌汁になった」
「規模がおかしい」
「課長が猫になった」
「それはちょっと見たい」
午後、課長を見る。
五十四歳。眼鏡。白髪。
ちょっと猫っぽい。
やめよう。
人として。
翌朝、俺は七時に起きた。
遅刻しないためである。
遅刻しなければ言い訳もしない。言い訳しなければ世界も壊れない。
完璧だ。
シャワーを浴びて、飯を食って、コーヒーまで飲んだ。
八時十分。家を出る。
八時十二分、財布を忘れたことに気づく。戻る。
八時十五分、鍵がない。探す。冷蔵庫の上。
なぜ。
八時十九分、家を出る。
八時二十一分、スマホを忘れた。戻る。
八時二十五分、家を出る。
八時二十六分、雨。
傘。
戻る。
神が俺を遅刻させようとしている。
九時七分、会社着。
課長がいた。
「佐伯」
「はい」
「今日は?」
言うな。
何も言うな。
普通に謝れ。七分ならまだいける。
「すみません、忘れ物をして——」
田中がこっちを見る。
目が輝いている。
やれ。
その目だった。
俺は無視した。
「忘れ物が重なりまして」
課長がうなずく。
よし。
普通。
世界は平和。
席に着こうとした。
田中が小声で言う。
「ビビってんの?」
俺は止まった。
「は?」
「能力者なのに?」
「うるさい」
「象使い」
「象は使ってない」
「道路消し」
「消してない」
三センチくらい腹が立った。
だから言ってしまった。
「今日は途中で宇宙人に止められたんだよ」
言った瞬間、後悔した。
田中の顔から笑みが消える。
「お前」
「いや」
「言ったぞ」
「違う」
「宇宙人って言った」
「聞き間違い」
「めちゃくちゃ言った」
俺たちは窓を見た。
空は青い。雲も普通。
五秒。
十秒。
何も起きない。
田中が笑った。
「なんだよ」
俺も笑った。
「ほら」
能力なんてない。
象も道路も偶然。
言葉で現実が変わるわけがない。
俺は席に着いて、パソコンを起動した。
その瞬間、空が暗くなった。
全員が窓を見る。
雲ではない。
巨大な何かが、東京の上空を覆っていた。
丸い。
銀色。
でかい。
誰が見てもUFOだった。
「佐伯」
課長の声がした。
「はい」
「会議室」
「俺じゃないです」
「まだ何も言ってない」
「俺じゃないです」
「来い」
会議室。
課長。俺。田中。
なぜ田中までいる。
「お前は何だ」
課長が言った。
「営業二課の佐伯です」
「そういうことじゃない」
外ではサイレンが鳴っている。スマホには緊急速報。テレビでは専門家が「地球外知的生命体の可能性が——」と言っている。
否定しろ。
頑張れ。
科学。
「戻せ」
課長が言った。
「どうやって」
「知らんよ!」
「俺、出してないです」
「言ったんだろ!」
「言っただけです」
「じゃあ言え!」
「何を」
「宇宙人が帰った!」
「それ遅刻の理由じゃないですよ」
全員が止まった。
そう。
遅刻理由。
たぶん条件はそこだ。
課長が時計を見る。
九時十九分。
「一回会社出ろ」
「はい?」
「出て遅刻して戻ってこい!」
人生で初めて、遅刻するために会社を追い出された。
コンビニまで走る。
おにぎりを買う。
鮭。
なぜ鮭かは分からない。
五分待つ。
戻る。
九時二十九分。
「遅い!」
「遅刻ですから!」
「理由!」
「途中で宇宙人に捕まったんですけど、用事が終わったので母星に帰りました!」
全員が窓を見る。
UFOが消えた。
拍手が起きた。
課長は椅子に崩れ落ち、田中は「すげえ!」と叫んでいる。
うるさい。
その日から俺は誰より早く会社へ行った。
七時四十分。
七時二十分。
七時。
能力を使わなければいい。
それで全部終わる。
終わらなかった。
一週間後。
会議室には課長、部長、知らない男、もっと知らない男、さらに知らない女がいた。
内閣府。
国交省。
気象庁。
帰りたい。
「佐伯さん」
「はい」
「明日、十五分ほど遅刻していただけないでしょうか」
「嫌です」
「台風が来ています」
「気象庁でなんとかしてください」
「史上最大級です」
「俺、営業です」
会議は三時間続いた。
国家の危機なのに、やっていることは遅刻の言い訳大喜利だった。
「台風を殴っていました」
却下。
「台風と揉めまして」
却下。
「台風が道を聞いてきたので」
惜しい。
「台風を見送っていました」
採用。
翌朝、九時十五分。
テレビ、官僚、課長、田中。
全員待っている。
俺は言った。
「すみません。台風が日本に来るのやめるっていうんで、見送ってました」
気象予報士が叫んだ。
台風が直角に曲がった。
会議室が沸いた。
嫌な予感しかしなかった。
翌日、農林水産省。
「雨を」
翌日、国交省。
「渋滞を」
翌日、厚労省。
「花粉を」
翌日、経産省。
「電力を」
翌日、財務省。
「景気を」
「知らん!」
俺の予定表は、
九時 遅刻
十時半 遅刻
十三時 遅刻
十五時 遅刻
十六時四十分 追加遅刻
で埋まった。
勤務していない。
遅刻しているだけだ。
そして金曜日。
全部が壊れた。
八時五十八分。
田中から電話。
「佐伯! 来るな!」
「え?」
「会社来るな!」
「なんで」
「課長が先に遅刻した!」
「は?」
九時。
ニュース速報。
《都内各地でカラスが整列》
「何したのあの人」
「分かんない!」
九時一分、課長から着信が入った。
「佐伯!」
「何言ったんですか!」
「聞いてくれ! 駅で駅員に怒られて、遅刻の理由聞かれて——」
「まさか」
「カラスに道を塞がれたって!」
「なんでそんな嘘を!」
外を見る。
カラス。
電線にも、屋根にも、道路標識にもいる。
全部こっちを見ている。
九時二分。
田中が叫ぶ。
「佐伯! 俺も遅刻した!」
「お前は黙れ!」
「電車が混んでて!」
「普通じゃん!」
「だから『車内が全部俺だった』って!」
「なんで!?」
駅から悲鳴。
スマホに動画が届く。
山手線の車内。
田中。
田中。
田中。
田中。
百人くらい田中。
全部同じ顔。
全部スマホ見てる。
「うわああああああ!」
電話の向こうで田中も叫んでいる。
「俺が多い!」
「お前が増やしたんだろ!」
九時三分。
部長から電話。
「佐伯!」
「今度は何!」
「俺も遅刻した!」
「もうやめろ!」
「エレベーターが上にしか行かない!」
ビルを見る。
エレベーターが屋上を突き破って飛んでいった。
「なんでそうなるんだよ!」
九時四分。
ニュース速報。
《都庁、浮上》
総務部長だった。
理由。
「地面が会社を嫌がりまして」
九時五分。
《東京湾から巨大な判子》
経理部。
「承認印を取りに行ってました」
九時六分。
《埼玉県、若干左へ移動》
営業一課。
「県境が混んでまして」
意味が分からない。
世界も意味を理解するのをやめていた。
九時七分。
内閣府から電話。
「佐伯さん!」
「無理です!」
「国会議事堂が回転しています!」
「止めてください!」
「そちらで!」
「そちらで止めろ!」
窓の外。
カラス。
田中。
浮く都庁。
飛ぶエレベーター。
巨大判子。
遠くで回る国会。
東京が完全に寝坊していた。
九時八分。
課長が叫ぶ。
「佐伯! 会社来い!」
「無理です!」
「お前がまとめて直せ!」
「どうやって!」
「遅刻しろ!」
「もう遅刻してます!」
時計を見る。
九時八分。
そうだ。
俺も遅刻している。
「理由!」
課長、田中、部長、官僚。
電話越しに全員叫ぶ。
「理由を言え!」
俺は考えた。
カラスを戻す。
田中を一人に。
都庁を降ろす。
埼玉を戻す。
判子を沈める。
国会を止める。
エレベーターを戻す。
全部。
一つの言い訳で。
無理だ。
背後で羽音がする。
カラスが増えている。
駅では田中が改札からあふれている。
国会は回転速度を上げた。
都庁が雲に入った。
埼玉がもう少し左へ行った。
群馬が困っている。
「佐伯!」
「早く!」
「何か言え!」
「世界が!」
「世界が何!」
俺は叫んだ。
「世界中めちゃくちゃだったんで、全部直してから来ました!」
止まった。
全部。
一瞬。
完全な静寂。
カラスが飛び去る。
田中が一人になる。
都庁が降りる。
巨大判子が沈む。
国会停止。
エレベーター帰還。
埼玉、戻る。
地図アプリが震えた。
日本列島。
正常。
会社から歓声が上がる。電話の向こうでも拍手が起きている。
俺は膝に手をついた。
終わった。
本当に終わった。
汗だくだった。
もう嫌だ。
俺は会社へ向かった。
走った。
九時十九分、入口。
九時二十分、エレベーター。
九時二十一分、営業二課。
ドアを開ける。
全員が俺を見た。
拍手が起きた。
課長が近づいてくる。
「佐伯」
「はい」
「よくやった」
「はい」
「今日はもう休め」
「はい」
「帰っていい」
「はい」
泣きそうになった。
席の鞄を取る。
帰ろう。
寝よう。
世界なんて知らない。
そのとき。
「すみませーん!」
新人の鈴木だった。
時計を見る。
九時二十二分。
課長が振り返る。
「鈴木」
「はい!」
「遅刻だぞ」
「すみません!」
俺は止まった。
田中も止まった。
部長も止まった。
内閣府の人も止まった。
全員、鈴木を見る。
課長がゆっくり言った。
「理由は?」
やめろ。
聞くな。
鈴木は頭をかいた。
「あー、なんか」
やめろ。
「家出たら」
やめろ。
「地球が二個あって」
全員が窓を見る。
空に、
地球があった。
もう一個。
でかい。
近い。
ものすごく近い。
課長が絶叫した。
「鈴木ィィィィィィィィ!!」
田中が叫ぶ。
「佐伯ィィィィィ!!」
部長も叫ぶ。
「遅刻しろォォォォォ!!」
俺は鞄を投げた。
階段へ走る。
「今からァァァァァァ!!」
一階。
外。
走る。
スマホ。
緊急速報。
《第二の地球 接近》
走る。
コンビニ。
鮭。
違う。
今日は梅。
買う。
また走る。
時計。
九時二十六分。
会社。
遠い。
第二の地球。
近い。
人類。
叫んでる。
俺も叫ぶ。
「待ってろォォォォォォォォ!!」
九時二十九分。
会社。
階段。
三階。
五階。
七階。
死ぬ。
九階。
営業二課。
ドアを蹴る。
「遅れましたァァァァァァァ!!」
全員が叫ぶ。
「理由ォォォォォォォ!!」
俺は息を吸った。
地球が窓いっぱいに迫っている。
「地球が二個あったんで、一個捨ててきましたァァァァァァァァ!!」
空が光った。
轟音。
窓が揺れる。
全員伏せる。
三秒。
五秒。
十秒。
静かになった。
顔を上げる。
空。
青い。
地球。
一個。
課長。
床。
田中。
机の下。
部長。
泣いてる。
俺。
汗だく。
誰も喋らない。
一分くらいして、課長が立ち上がった。
ホワイトボードへ歩き、ペンを持つ。
そして、でかい字で書いた。
始業時間 なし
田中が拍手した。
部長も拍手した。
俺も拍手した。
全員立ち上がる。
拍手。
歓声。
泣いてるやつもいる。
そのとき、入口のドアが開いた。
知らない男が立っていた。
スーツ。
爽やか。
「おはようございます。本日付で赴任しました、新しい社長です」
誰も返事をしない。
新社長は時計を見る。
首をかしげる。
「皆さん、ずいぶん早いですね」
課長が、
ゆっくり、
ペンを落とした。




Ryo Kumagaiさんのリスタックで拝読しました。
あまりに面白くて、悶絶しそうです。
寝る前にもう一度読みたくて読んでます。
笑🤣🤣🤣💕